#4 映画化への道② 二人の人物との出会い

2013年4月19日

一昨日「オフィシャルブログを開設しました」という案内をBCCで発信したところ、多くの方から返信を頂いた。「続きを早く見たい」「知っているようで知らなかった入院話」「私も人生の出口を探している」・・・など50通を超えた。「ブログ」の恐ろしさと楽しさを少し体現。

今回から「樹海のふたり」が実現に至るエピソードを綴っていく予定。また、タイトルの前に#マークのナンバーリングをし、インデックスとしても判りくしていこうと思っている。

かって私は、映画製作を2度試みたが、その2本とも実現せずに悔し涙を飲んだ。一本目は私が脚本を書き(共同脚本 寺田裕之)ATGのシナリオコンクールで奨励賞を受賞した「三月の死球(デットボール)」私の監督デビュー作として準備を進めていたが、ATGが突然活動を休止した為、断念。29歳の時だった。二本目は、ドキュメンタリージャパンと電通の共同製作で、ノンフィクション「つつぱりトミーの死」(生江有二著)を原作とした映画を準備。脚本を書き終えた段階で、この映画のプロデューサーだったドキョメンタリージャパンの初代社長・河村治彦が、ガンのため急死、推進力を無くしこれも流局。この時34歳だった。

映画の世界に神がいるとすれば、神様に見放されたのだ。何てツイていない男・・・、自分の運命を恨んだ。

if・・・(もしも)あの時、映画が実現していたら、私の人生も大きく変わっていた事だろう。次々と新作を発表する人気監督になっていたか、いや、おそらく野垂れ死にしていたに違いない。しかし、今回は3度目の正直、ようやく実現出来た。そこには、ある人物との出会いがあったからだ。

2009年の暮れに退院し、2010年、ふたりの人物に出会う事になる。このふたりが映画の神様を連れて来た。

 ひとりは、制作会社(株)いまじんの会長の柏井信二氏である。 同社は「行列ができる法律相談所」「嵐にしゃがれ」「ザ!世界仰天ニュース」など、民放バラエティ番組のオピニオンリーダー的な存在で、大手プロダクションである。

柏井氏は、テレビ制作会社が加盟する社団法人 全日本テレビ番組製作者連盟(ATP)の副理事長(当時)で、私はその下で理事を務めていた。 制作会社の人材不足や、高い離職率を解決すべく模索してきた間柄であり、人間的に懐の深い業界の先輩だった。

柏井氏は常々「制作会社が自分たちでソフトを製作し、コンテンツメーカーとして自立するのが、最も理想的な形」と力説されていた。 当時私は、ある高名な脚本家先生から「この脚本を映画化して見ないか」と一本のシナリオを託されていた。その脚本を柏井氏に見せ映画化の話を持ちかけた。 柏井氏は、映画を製作する事には大変興味を示されたが、大正末期を舞台としたその脚本は、自主製作としてはかなりの予算を要するもので難色を示された。

柏井氏は、①3千万円程度のローバジェットの映画である事。②社会性があり、現代に訴えるテーマである事。の2点を条件に企画を練ってみたい、という事になり、先の脚本の映画化は断念する事となった。

その夜、残念会を兼ねて焼き鳥屋で一杯やった。 その時、例の「樹海」を舞台にした映画化の話をした。「実話を基にドキュメンタリータッチの映画にしたい」と云うと、柏井氏の瞳がキラリと輝いた「俺は樹海には結構詳しいよ・・・」。駆けけ出しのディレクター時代、警察の樹海捜索に同行取材した事があり、ウエディングドレスの白骨遺体を目の当りにしたと云う。このエピソードは脚本に反映する事になった・・。 結果、柏井信二氏には『樹海のふたり』のエグゼクティブ・プロデューサーとして、製作統括を担ってもらう事になった。

 

写真前列、左が柏井信二EP・隣が相川弘隆P・二列目右端が藍澤幸久P。この3人が現場を仕切ってくれた。

写真前列、左が柏井信二EP・隣が相川弘隆P・二列目右端が藍澤幸久P。この3人が現場を仕切ってくれた。

そして、 もうひとりは女優の烏丸せつこさんである。

これは来週公開です。

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