#7 配役② 遠藤久美子と自閉症児

2013年4月30日

樹海のふたり」に出演する、セリフがあり役名の付く俳優は35名。 この中で、一番早く決めたのが、自閉症・光一役の武井 証(あかし)くんである。母親で竹内哲(板倉) の妻・純子役が遠藤久美子さんである。

なぜ子役のキャスティングから着手したかと云えば、自閉症児の役作りが最も時間を要すると読んでいたからだ。2011年夏、東映大泉撮影所を借り、オーディションを始めた。クランクインの約8ケ月前の事である。 

100人を超える子役たちが集まってくれた。が、どの少年も「ダンスが特技です」「バンドやってまーす」という、品のいい美少年ばかりであった。

私は光一役に大島渚監督の「少年」(1969年 ATG)に出演した男の子をイメージしていた。自ら車にぶつかり、相手から示談金を巻き上げ生活する「当たり屋家族」。実話を基にしたロードムービーの傑作である。その、当たり役を演じた先妻の連れ子・・・一重まぶたの孤独な横顔が印象的だった。

一次選考、二次選考とオーディションが進む中、いつも目立たない所に座り、変な喋り方をする不思議な少年がいた。武井 証くんである。本人は、オーディションを受けるにあたり、自分なりに自閉症を作って来たのだろう。

自閉症児は十人十色と言われているが、何かに強いこだわりを持つ人が多い。光一は、1日中トイレに入り、水の流れの渦巻きに執着する設定にした。また乳児から使っていた「枕」と「流木」を常に持たせる事にした。

 

自閉症児役の竹内 証くん。いつも枕と流木を持っている

自閉症児役の竹内 証くん。いつも枕と流木を持っている

当時、中学生だった武井くんには、学校の帰り、また週末には会社に来てもらい稽古を重ねた。 光一のセリフは、自閉症児の特徴のひとつである「オウム返し」とアクションだけである。 歩き方、喋り方、目線のとり方、お箸の持ち方・・・機嫌がいい時、悪い時・・・いろんな動作を試行錯誤しながら作りあげていった。稽古の途中「どうしていいかわかりません」と泣きべそになった事もあった。

母親・純子役は「意外性」のあるキャスティングを念頭に置いた。例えば、元アイドルで、これから本格的な女優の道を渇望している人・・・。

<アイドル>は時代と共に必ず曲がり角を迎える。そして、暗闇の中で自分が今後どう生きていくのかを模索しなければならない。その過程で人間的に厚みを増し、光と影を演じられる俳優となって行く・・・。元キャンデーズの田中好子さんがいい例だ。助監督が元アイドルの資料をずらりと揃えてくれた。その中で目を引いたのが遠藤久美子さんである。

遠藤久美子・・・マグドナルドのCMで登場し、「エンクミ」の愛称で親しまれ、歌手、バラエティ番組にも出演するなど一世風靡したアイドル。

s-0604-純子-_MG_0843その遠藤さんの近況を知る為ブログを開くと東日本大震災の事が書かれてあった。「震災を境に自らの生き方を問われ苦しんでいる。その中から希望を見出し、女優として生きて行きたい」といった記述だった。心を揺さぶられた。私が求めていたその人だった。その日の内に、出演交渉の手紙を書き台本に添え届けた。

 

撮影の合間、遠藤久美子は、子供たちとゲームをしたりして、リードしてくれた。

撮影の合間、遠藤久美子は、子供たちとゲームをしたりして、リードしてくれた。

竹内家は5人家族。ロケ場所は、澤井克一制作担当が捜してきた多摩川沿いの3DKの団地の一室。板倉俊之・遠藤久美子・武井証くんと兄弟役2人の5人家族が集合した。全員揃っての顔合わせはこの日が初めて。しかし、1時間もしない内に、これは本当の家族?と思わせるくらい打ち解けていた。大家族の中で育ったという遠藤久美子さんの包容力と、温かみのある母性が子供たちをリードしてくれた。

武井くんは役作りに苦労した甲斐あって、ほとんどティクワンでOKだった。試写回でも「あの自閉症児は本当の方ですか?」という質問があるくらい迫真の演技をしてくれた。

竹内家の撮影は2日間で終わった。

ロケ帰りに柏井EPの案内で、板倉俊之氏・遠藤久美子さんと新宿で寿司を食べた。

「家庭内の撮影は今日で終わりですよね・・・みんなと別れるの本当に淋しいです・・」板倉氏はしんみりと言った。「・・・後ろ髪引かれながら別れる位がちょうど良いのです」と私。

オレ・・今日、自分の家庭を持ちたいな と、正直思いました」板倉氏は本音をポツリと漏らした。

#6 配役① インパルスとの邂逅

2013年4月26日

「樹海のふたり」の準備を進める中で、主演のキャスティングは白紙のままだった。

この映画のモデルとなった実在のディレクターと出会い映画化を思い立った時、私の頭には何故か一本の映画が浮かんでいた。 アメリカンニューシネマ「スケアクロウ」(1973年・シャッツバーグ監督)である。

主演は、アルパチーノとジーン・ハックマン。ふとした事で知り合ったふたりの友情と、夢と挫折を描くロードムービーの傑作である。 小柄で神経質、何をやらかすのか判らない狂気を秘めた男をアルパチーノが、大男で大食漢、女好きで暴力的だが優しい男をジーン・ハックマンが演じた。

このイメージを元に、タレント名鑑のページをめくり、いろんな俳優の組み合わせをして見たが、これだ!というものを見出せず焦り始めた頃だった。

柏井プロデューサーから「インパルスというお笑いコンビを知っているか?彼らは監督が抱くイメージに近いものを持っている」という連絡があった。お笑いが大好きな息子に「インパルスって知ってる?」と聞くと、何でも、芸人同士が芸を競う番組で「完全制覇」を達成した人気コンビだという。

慌てて彼らのDVDを取り寄せ観た。 インパルスが繰り広げるコントには下ネタはなく、鋭い人間観察から着想されたシュールな作品群で、しかも、全てが板倉俊之氏のオリジナル台本だという。彼らは単なるお笑い芸人ではなく、クリエイターの匂いを放っていた。また、劇中の年齢とも適合していた。いまじんの相川弘隆プロデューサーが出演交渉の窓口となりすぐに脚本を届け、打診を始めた。

2012年の初春。 新宿にある吉本興業で、インパルスのふたり板倉俊之、堤下敦両氏とお会いした。

板倉氏は 開口一番「ボクが書いた小説を読まれてキャスティングされたのですか?」と聞いてきた。 板倉氏は『蟻地獄(2012年4月出版・リトルモア)という題名の長編小説を上梓されたばかりだという。その小説の舞台に「樹海での集団自殺」が登場するため、何度も「樹海」に下見に行っていた、との事。

何という偶然・・・。 「お互い見えない糸を引きあっていたのですね・・これを縁というのです」と私。

「でも、俺たち演技が出来るかどうか不安です」「いえ、演技がうまいか、ヘタかどうかは問いません。自然体で出来ればいいのです」「じゃお願いします」という事になった。レギュラー番組を抱え多忙なふたりのスケジュールを聞き、その場で、クランクインの日を確認し合った。

半年以上かかっても決まらなかった主役のふたりのキャスティングは、わずか10分もかからず決定した

 

撮影は、レギューラー番組を抱えるスケジュールを縫って敢行された。

撮影は、レギューラー番組を抱えるスケジュールを縫って敢行された。

※ちなみに『蟻地獄』はクランクアップ後に読んだ。違法カジノ・臓器売買・集団自殺・・・アンダーグラウンドを舞台に、サスペンス豊かに切り込んだ怒涛の436ページ、板倉俊之氏の筆力に圧倒される。

そして、2012年5月20日にクランクイン。

 

撮影は、何度もテストをせず、動きを確認し、ぶっつけ本番で臨んだ。

撮影は、何度もテストをせず、動きを確認し、ぶっつけ本番で臨んだ。

本人たちは、演技にあたって「スケアクロウ」ではなく「フェイス/オフ」(1998年 ジョン・ウ-監督)のニコラス・ケイジとジョン・トラボルタを意識していたらしいが・・・(笑い)。

#5 映画への道③ 女優烏丸せつことの再会

2013年4月22日

私に「映画を創りなさい」とハッパを掛け続けた人がいる。

女優の烏丸せつこさんである。

烏丸さんとは、1989年、私がかって在籍していた制作会社(株)ドキュメンタリージャパン時代、テレビドラマを初監督した時の主演女優である。

番組はテレビ東京「女のサスペンス 死の郵便配達」(脚本/西岡琢也 出演/烏丸せつこ ビートきよし 赤座美代子 新井康弘)

この番組がなんと21年経って再放送される事となった。21年前のドラマが、今でも通用するのか・・不安になった。すると、当時APだった、テレビ東京の橋本かおりプロデューサーからメールが来た。「現在視聴しても、私のラインナップの中でも秀逸作品。烏丸さんが殺人後、そうめんをすするシーンが特に好きです」と。

その再放送がきっかけで、烏丸さんと再会する機会を得た。

ドラマを撮った時の烏丸せつこは34歳。郵便の誤配から、同姓同名の女性を殺してしまう人妻役を、色っぽく、汚く、コケティシュに演じてくれた。カメラは、『樹海のふたり』でも組む山崎裕が、ドキュメンタリータッチで匂い立つようなリアリティを醸し出した。撮影は8日間。青山の古びた団地と、開発が進む湾岸地帯を映像合成し、ミケランジェロ・アントニオーニ監督が創りだす「風景の圧迫」を意識しながら撮り進めた。

再放送後、多くの方からメールをもらった。どれも好評で、ネットでも烏丸せつこファンの話題となり、画像がUPされたりした。

烏丸せつこ・・・クラリオンガールとして芸能界デビュー後「四季・奈津子」(1980年 東陽一監督)で主役に抜擢され、いきなり日本アカデミー主演女優賞を受賞し括目された。しかし、私がその存在に衝撃を受けたのは30歳の時に観た映画「マノン」(1981年 東陽一監督・川上皓一撮影)である。その童顔の中に隠された肉体美・・・自分では押さえようのない性のマグマを抱えた、危うい女の<業>を演じられる希少な女優として、注目して来た。脚本家の西岡琢也の勧めもあり、迷わず「死の郵便配達」の主役をお願いした。

そして、烏丸さんと21年ぶりにお会いした。55歳になられていたが、その存在感は独特で、突き刺すようなオーラが放たれていた。

S KARASUMA

当然「死の郵便配達」のことが話題となり「あの場面はこうすければ良かった・・」「あのカットは凄く好きです」など、いまだに作品に執着する烏丸さんの役者魂に驚かされた。

そして、「山口監督には是非映画を撮って欲しい。貴方には才能があるのだから、もったいない。遊んでいる時間はないのです」など檄を飛ばされた。烏丸さんは、私の病気の事を人づてに聞き、励ますつもりだったのだろうが、歯に衣を着せない鋭い言葉は、魂に響き、背中を強く押された事は確かである。

その後も烏丸さんから、小説や映画のDVDが不定期的に送られて来た。「この映画は面白いから観た方がいい」「この小説は映画のヒントになるかも・・」

韓国映画 イ・チャンドン監督作品ペパーミント・キャンデイ」(1999年)「オアシス」(2002年)「シークレット・サンシャイン」(2007年)。邦画では「ユリイカ」(2000年 青山真冶監督 )などだった。中には、私がすでに観た日活ロマンポルノの傑作「マル秘色情めす市場」(1974年 田中登監督)などもあった。

烏丸さんは勉強家であった。映画を愛する純度は高かった。そこには女優として生きて行こうする渇望と、意志の塊(かたまり)を感じた。それを示す事により、映画から遠く離れていた私を呼び戻そうとされたに違いない。映画的同志を得た私は、休眠していた「創作脳」を刺激され続けた。

烏丸さんには、「樹海のふたり」では、宿泊所の受付、理由ありの謎の女・茂子を演じてもらった。短いシーンだが、烏丸せつこが画面に出ると、何故か映画に重しがかかる。

烏丸さんには、「樹海のふたり」では、宿泊所の受付、理由ありの謎の女・茂子を演じてもらった。短いシーンだが、烏丸せつこが画面に出ると、何故か映画に重しがかかる。

2010年の冬、私の体力も回復し、正月休みを使って脚本を一気に書き上げた。書き始めてエンドマークを付けるまで、推敲などせず、7日間ぶっ通しで書いた。300枚を超える第一稿を柏井プロデューサーにメールで送った。

大変面白く読みました。可能性を感じます」という返事が来た。

次回からは「キャスティング裏話」です。

#4 映画化への道② 二人の人物との出会い

2013年4月19日

一昨日「オフィシャルブログを開設しました」という案内をBCCで発信したところ、多くの方から返信を頂いた。「続きを早く見たい」「知っているようで知らなかった入院話」「私も人生の出口を探している」・・・など50通を超えた。「ブログ」の恐ろしさと楽しさを少し体現。

今回から「樹海のふたり」が実現に至るエピソードを綴っていく予定。また、タイトルの前に#マークのナンバーリングをし、インデックスとしても判りくしていこうと思っている。

かって私は、映画製作を2度試みたが、その2本とも実現せずに悔し涙を飲んだ。一本目は私が脚本を書き(共同脚本 寺田裕之)ATGのシナリオコンクールで奨励賞を受賞した「三月の死球(デットボール)」私の監督デビュー作として準備を進めていたが、ATGが突然活動を休止した為、断念。29歳の時だった。二本目は、ドキュメンタリージャパンと電通の共同製作で、ノンフィクション「つつぱりトミーの死」(生江有二著)を原作とした映画を準備。脚本を書き終えた段階で、この映画のプロデューサーだったドキョメンタリージャパンの初代社長・河村治彦が、ガンのため急死、推進力を無くしこれも流局。この時34歳だった。

映画の世界に神がいるとすれば、神様に見放されたのだ。何てツイていない男・・・、自分の運命を恨んだ。

if・・・(もしも)あの時、映画が実現していたら、私の人生も大きく変わっていた事だろう。次々と新作を発表する人気監督になっていたか、いや、おそらく野垂れ死にしていたに違いない。しかし、今回は3度目の正直、ようやく実現出来た。そこには、ある人物との出会いがあったからだ。

2009年の暮れに退院し、2010年、ふたりの人物に出会う事になる。このふたりが映画の神様を連れて来た。

 ひとりは、制作会社(株)いまじんの会長の柏井信二氏である。 同社は「行列ができる法律相談所」「嵐にしゃがれ」「ザ!世界仰天ニュース」など、民放バラエティ番組のオピニオンリーダー的な存在で、大手プロダクションである。

柏井氏は、テレビ制作会社が加盟する社団法人 全日本テレビ番組製作者連盟(ATP)の副理事長(当時)で、私はその下で理事を務めていた。 制作会社の人材不足や、高い離職率を解決すべく模索してきた間柄であり、人間的に懐の深い業界の先輩だった。

柏井氏は常々「制作会社が自分たちでソフトを製作し、コンテンツメーカーとして自立するのが、最も理想的な形」と力説されていた。 当時私は、ある高名な脚本家先生から「この脚本を映画化して見ないか」と一本のシナリオを託されていた。その脚本を柏井氏に見せ映画化の話を持ちかけた。 柏井氏は、映画を製作する事には大変興味を示されたが、大正末期を舞台としたその脚本は、自主製作としてはかなりの予算を要するもので難色を示された。

柏井氏は、①3千万円程度のローバジェットの映画である事。②社会性があり、現代に訴えるテーマである事。の2点を条件に企画を練ってみたい、という事になり、先の脚本の映画化は断念する事となった。

その夜、残念会を兼ねて焼き鳥屋で一杯やった。 その時、例の「樹海」を舞台にした映画化の話をした。「実話を基にドキュメンタリータッチの映画にしたい」と云うと、柏井氏の瞳がキラリと輝いた「俺は樹海には結構詳しいよ・・・」。駆けけ出しのディレクター時代、警察の樹海捜索に同行取材した事があり、ウエディングドレスの白骨遺体を目の当りにしたと云う。このエピソードは脚本に反映する事になった・・。 結果、柏井信二氏には『樹海のふたり』のエグゼクティブ・プロデューサーとして、製作統括を担ってもらう事になった。

 

写真前列、左が柏井信二EP・隣が相川弘隆P・二列目右端が藍澤幸久P。この3人が現場を仕切ってくれた。

写真前列、左が柏井信二EP・隣が相川弘隆P・二列目右端が藍澤幸久P。この3人が現場を仕切ってくれた。

そして、 もうひとりは女優の烏丸せつこさんである。

これは来週公開です。

#3 映画化への道① 入院が引き金

2013年4月17日

興味深い実話に出会ったからと言って、すぐに映画が実現したわけではない。

『樹海のふたり』のクランクインは2012年の5月。映画の着想を得てからすでに8年が経過していた。

2004年にフリ-ディレクタ-のS氏・T氏と知り合い「樹海」の話を聞き映画化を思い立ったが、2004年は私にとつて超が付く位、多忙の始まりだった。私が企画しNHKと共同製作した大型番組「列島縦断 鉄道12000㎞ 最長片道切符の旅」を始めた年だ。

最長片道切符の旅」とは、JRだけを使い、同じ駅を二度通ることなく、より長い距離を一筆書きで行く、という究極の鉄道旅行である。北海道稚内駅を出発点に九州・佐賀県の肥前山口駅のゴールを目指す45日間の旅。出演者は関口宏氏の長男・関口知宏氏。

生中継を入れての番組は、その臨場感とともに、関口知宏の自然体の触れ合いが人気を博し、ヒット番組となった。翌年、続編とも云える「関口知宏 鉄道乗りつくしの旅」を制作。JRの路線2万㎞をすべて乗りつくした。この2匹目のドジョウもヒットし、鉄道シリーズは、ヨーロッパ6ケ国そして中国まで発展し、2007年まで続く事となった。

中国鉄道大紀行36000㎞のゴール地点「西安」で、関口知宏と4年間続いた旅の喜びを分かち合う。

中国鉄道大紀行36000㎞のゴール地点「西安」で、関口知宏と4年間続いた旅の喜びを分かち合う。

そして、これを主軸に10年がかりで進めていた、モンゴルを舞台にした「10年後のマンホールチルドレン」(NHKBS 08年3月放送)の取材が大詰めを迎えていた。のちにこれは再編集しドキュメンタリー映画として完成させた。

並行して、ジョンレノンとオノ・ヨーコさんの愛の結晶とも云える、イマジンピースタワーの誕生秘話と、その半生を描く「ジョンとヨーコの祈り~イマジンピ-スタワ-~」の(NHKBS・08年5月放送)を抱え、撮影・編集でのたうちまわっていた。事情があってディレクタ-が途中降板した為、私がプロデュ-サ-兼ディレクタ-をやる事になり、完全徹夜状態の編集が続いた。完成したテープを持ちN・Yのオノ・ヨーコさんの家で完成試写をした。

ジョンとヨ-コの愛の巣、タゴダハウスで完成試写をし、記念撮影。

ジョンとヨ-コの愛の巣、タゴダハウスで完成試写をし、記念撮影。

ヨ-コさんは、番組の事を大変気に入ってくれ、鰻や寿司を御馳走してくれた。試写後、ホテルに帰ると、今まで体験した事がない程の激痛が背中に走った。

2009年、長年の不摂生と過労のツケがたまり入院する事になった。私の体の細胞諸君が「ここで一休みしなさい」と指令を送ったに違いない。この手術を伴う入院は、自分と向き合うまたとない<思索>の時間となった。「このまま人生を終わっていいのか・・まだ、やり残した事がある。映画を創らねば・・・」

※この後、手術後の写真を掲載するので、気持ち悪い方はスクロ-ルして下さい。私は一応ドキュメンタリストの端くれなので、記録するという本能で写真を撮ったのだと思う。

看護婦さんに撮ってもらった手術3日後の写真。 この写真を見た弊社女子社員は、拳銃で撃たれたヤクザのようだ、と評した(苦笑)

看護婦さんに撮ってもらった手術3日後の写真。
この写真を見た弊社女子社員は、拳銃で撃たれたヤクザのようだ、と評した(苦笑)

映画監督を志したのは17歳の時。九州の片田舎の青年だった。大学卒業後、黒木和雄監督に師事し、竜馬暗殺」(1974年 ATG映画)の現場を体験した。そして自ら脚本を書き監督するチャンスを得たが実現せず、テレビの世界へと移行していった。

新宿西口の高層ビルが見える寒々とした病室で、数本ある構想中の映画企画を再考した。この入院体験がなければ、映画は作れなかった、と思っている・・・不思議なものだ。

 

 

#2 映画の着想・TVディレクターとの出会い

2013年4月16日

『樹海のふたり』はどのようにして発想・企画されたのですか?必ず質問される項目である。

映画のキャッチコピーも『実話からインスパィヤされたヒューマンドラマ』とあるから、まずこの話から始めよう。

日頃私は、テレビドキュメンタリーや情報番組を主な仕事としている。

2004年、民放の番組で「樹海」を舞台に制作を進めていた時、局のプロデューサーから二人のフリーディレクターを紹介された。

彼らは、樹海付近のバス停に何日間も張り込み、自殺志願者を見つけ出し救出する場面を撮影、番組化する男たちだという。

二人と会うまでは「いいかげんな奴らだろう・・・」と思っていた。

しかし、一緒に仕事をして見ると、彼らは驚くほどピュアな男たちであった。取材に丸ニケ月間費やし、膨大な撮影済みのテープを手に疲労を滲ませ東京に戻ってきた。その映像には、樹海で繰り広げられる生と死のドラマが生々しく切り取られていた。

番組は高視聴率を獲ったが、彼らは決して有頂天にになる人物ではなかった。

「俺たち、自殺を決意した人を助ける。しかし、その後の人生に何の責任も持たない。放送したらギャラを貰ってそれで終わり・・こんな事をしていていいのだろうか」

「命を助ける事を大義名分にして、人の命を食い物にしてないか・・・」彼らは自分たちの行為に疑問を持ち、激しく葛藤していた。

不器用で愚直な二人にすっかり魅了された私は、番組が終わっても酒を酌み交わす仲となった。そして、彼らから、樹海で体験した様々な話を聞くことになる。そのエピソードは、おかしくて、切なくて、人間臭いものだった。

私は、彼らから強烈な映画的インスピレーションを得て、直感的にすぐに「映画化したい」と思った。

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「樹海」は四方八方同じ風景が続く万華鏡のような世界が広がり、一度迷い込んだら二度と出る事が出来ないと云われている。

人生なんて、樹海のど真ん中にいるようなものじゃないか・・・どこが出口か判らずウロウロしている・・・」主人公のふたりが呟くセリフは浮かんだが、しかし、映画が完成するまで、それから8年もかかる事になる・・・。まさに私自身が「樹海」の中で方向性を無くし出口を探しす8年間だった。

 

 

#1 オフィシャルブログを開設しました。

2013年4月15日

遅まきながら、本日4月15日(月)より、私のオフィシャルブログを始めます。

まず、ここ数年取り組んできた、劇映画『樹海のふたり』が完成し、ロードショウ公開が決まりましたのでお知らせ致します。

この映画は、テレビ番組制作会社4社(いまじん/えふぶんの壱/キメラ/メディア・バスターズ)が共同出資し製作した、山口秀矢 脚本・監督作品です。

東京 渋谷ユーロスペース7月6日(土)を皮きりに、札幌・大阪・名古屋・福岡・・・京都・神戸と順次公開予定です。

当面このブログでは『樹海のふたり』の発想から撮影・公開までを、監督目線から(スタッフ・キャスト・舞台裏のエピソードなど)連載をして行こうと考えています。それは、私自身が何を考え、何を模索し、何を目指していたのか・・自らが解き明かす思索の旅です。

パソコンは苦手ですが、60歳の手習い、可能な限りSNSと連動する形で発信して行こうと思っています。

ご笑覧下さい。

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